【保存版】古墳時代まとめ!超簡単にわかりやすく解説[日本史B]

大学入試で出題される「古墳時代」の知識を全て網羅しました!

そして古墳時代をどこよりもわかりやすく解説していきます。

予備知識ゼロでも簡単に「古墳時代」を完全理解できます。

また記事の最後にはこの記事内で登場する全ての入試頻出用語を網羅した「一問一答集」も収録しています。用語暗記にご活用くださいませ。

是非、この記事を定期試験や大学入試、教養としての日本史学習の参考にして頂ければ幸いです。

目次

古墳時代の完全まとめ!超わかりやすく解説!

古墳時代の年表

「古墳とは何か?」を確認したところで「年表」を使って古墳時代の全体像を確認しておきましょう。

古墳時代の全体像
  • 3世紀中頃~4世紀後半
    古墳時代前期

    副葬品:呪術的(銅鏡など)
    代表例:箸墓はしはか古墳(奈良県)
    ※大和=奈良県

  • 4世紀後半~5世紀末
    古墳時代中期

    副葬品:武人的(武器など)
    代表例:大仙陵だいせんりょう古墳(大阪府)

  • 6~7世紀
    古墳時代後期

    副葬品:土器などの日用品
    代表例:岩橋いわせ千塚せんづか古墳群(和歌山県)

今の段階ではこの年表の意味がよく分からなくても大丈夫です。本文を読み進む際の参考資料としてこの年表を活用すると便利ですよ!

要約

下記はこの記事の要約です。今の時点では、よく意味が分からなくても問題ないので、安心してくださいね!本文で超わかりやすく解説しますので!

3世紀中頃に古墳時代が始まり、4世紀になるとヤマト政権が成立します。ヤマト政権は日本で最初の統一国家です。

現在の奈良県を根拠地にヤマト政権が勢力範囲を拡大していく過程は古墳の広がりから読み取ることができます。

そして古墳時代中期にはヤマト政権は高句麗こうくりと対立。これに対抗すべく中国の南朝なんちょう朝貢ちょうこうします。

ヤマト政権の成立は4世紀!」今はこの事実だけ理解できれば大丈夫!

1.古墳時代前期のまとめ

前期の古墳の種類

弥生時代後期にはすでに墳丘墓ふんきゅうぼと呼ばれる権力者の墓がありました。そして古墳時代前期に入ると、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん円墳えんぷん方墳ほうふんといった種類の古墳が出現します。

圧倒的に規模が大きいのは「前方後円墳」です。実際、古墳の規模のランキングで1位~46位は全て前方後円墳です。また暗記すべき有名な古墳のほとんどは前方後円墳に分類されます。

大きな古墳や有名な古墳のほとんどは前方後円墳

逆に小規模ですが数として多いのは「円墳」や「方墳」です。

【補足】前方後円墳が西日本に多いのに対して、出雲いずも地方や東日本には大小の方形の墳丘をつなげた形をした前方後方墳ぜんぽうこうほうふんが多くみられます。このことは東日本が遅れてヤマト政権の支配下に加わったことを物語っています。ただし大学入試に「前方後方墳」が出題されることは滅多にありません。

出現期とは

また古墳時代前期のうち、とくに3世紀後半出現期しゅつげんきといいます。

「3世紀後半」=「出現期

出現期最大規模の古墳は箸墓古墳

さて出現期最大の古墳は全長276mの箸墓はしはか古墳です。この箸墓古墳はもしかしたら卑弥呼ひみこの墓かもしれないとも言われているんです。ただしその真相は定かではありません。

ヤマト政権の発祥の地は現在の奈良県

ところで、この箸墓はしはか古墳は奈良県にあり、奈良県と言えば当時の大和やまとです。箸墓古墳をはじめとする古墳時代前期の大規模な前方後円墳は畿内きない大和地方に集中しているんです。

このことから大和(奈良県)は力の強い豪族の政治連合であるヤマト政権が誕生した土地だと考えられています。

ヤマト政権の発祥はっしょうの地は奈良県大和)である!

さて、古墳時代が進むにつれて、大和(奈良県)の前方後円墳と同じような古墳がだんだんと全国各地に広がっていきます。

こうした大規模な前方後円墳の広がりは、ヤマト政権の勢力拡大のプロセスを表していると考えられています。

ただし4世紀の日本の様子を記した文献史料は皆無に等しく、そのため4世紀は「謎の世紀」と呼ばれることがあります。従って、詳しいヤマト政権の勢力拡大の過程は未だに分かっていません。

しかし、大和地方を中心とする古墳の広がりの調査から、5世紀後半(古墳時代中期)には「ヤマト政権の権力」は九州~東北にまで及んでいたことは確実です。

古墳時代前期の副葬品の特色

副葬品とは

副葬品ふくそうひんとは遺体と一緒に埋められる品々のことです。

古墳時代前期の政治の仕方

よくよく考えてみると「弥生時代→古墳時代」なわけですよね?

そして弥生時代の終わり頃は邪馬台国やまたいこく卑弥呼ひみこ宗教的権威を背景に政治を行っていましたね。古墳時代前期も卑弥呼の時代の直後ですからやはり宗教的権威で政治をり行っていたわけです。

古墳時代前期の副葬品は呪術的

そのため前期の副葬品は呪術的な色彩の強いものが多い。具体的には三角縁さんかくぶち神獣鏡しんじゅうきょうといった銅鏡どうきょうたま碧玉へきぎょく硬玉こうぎょく)などが前期の副葬品の代表例です。

このことは被葬者ひそうしゃ(お墓に埋められている人)が司祭者しさいしゃ的な性格をもっていたことをうかがわせます。

また、古墳の表面は葺石ふきいしによっておおわれ、墳頂部ふんちょうぶ(古墳のてっぺん)や周囲には埴輪はにわが並べられました。

葺石ふきいしとは墳丘ふんきゅうの表面をおおっている「石」のことです。

また埴輪はにわには様々な種類があり、古墳時代前期の埴輪は基本的に円筒埴輪えんとうはにわでした。中期~後期には動物など具体的な形をもつ形象埴輪けいしょうはにわへと変化していきます。

古墳時代中期の副葬品は武人的

ちなみに、古墳時代中期には武力で国を治めるような政治が主流になったので、副葬品も武人的になり馬具武器などに変化しますよ。

古墳時代前期の副葬品は銅鏡などの呪術的な品が中心!前期古墳の銅鏡で一番多いのは三角縁神獣鏡さんかくぶちしんじゅうきょう!中期には武力で国を治める時代に!副葬品も武人的になり馬具武器に変化!

2.古墳時代中期のまとめ

古墳時代中期の古墳の分布とヤマト政権の勢力範囲

前期には大和を中心に大規模な前方後円墳が多くみられますが、古墳時代中期(4世紀後半~5世紀末)には大和の前方後円墳と「規模や形状」の似通った古墳が日本全国に広がっていきます。

そして繰り返しになりますが、遅くとも5世紀後半には九州~東北がヤマト政権の支配下に入ります

古墳時代前期~中期の埋葬方法

竪穴式石室

古墳時代の前期~中期の古墳では長方形の石室をつくり、その中にひつぎをおさめ、天井石をのせて閉鎖へいさし、その上にさらに土をかぶせる竪穴式石室たてあなしきせきしつが中心です。

竪穴式石室の特色は「お1人様用」だという点です。

古墳時代後期になると1つの古墳に複数の遺体を埋葬するようになるのですが、前期~中期の古墳は基本的に「権力者1人だけ」を埋葬するためのものだったわけです!

粘土槨

また石室を設けず、直接、ひつぎをおさめて周囲を厚く粘土でおおう埋葬の仕方を粘土槨ねんどかくといいます。粘土槨も竪穴形態たてあなけいたいで、「お1人様用」の埋葬方法です。

前方後円墳の巨大化

古墳時代中期(4世紀後半~5世紀末)にはいると突然、前方後円墳が巨大化します。

1位:大仙陵古墳

出現期最大の箸墓はしはか古墳の大きさは全長276mですが、古墳時代中期を代表する大阪府大仙陵だいせんりょう古墳仁徳にんとく天皇陵古墳)は、なんと全長486mです。

そのため大仙陵古墳は全国位の規模を誇ります。

「276m→486m」の変化ですから中期にはいると突如とつじょとして古墳が大型化していることが分かりますますね。

また、大仙陵古墳は世紀のヤマト政権の盟主大王おおきみ)の墓だと考えられています。

大仙陵古墳は「百舌鳥古墳群」の中心

なお、大仙陵古墳は百舌鳥もず古墳群の中心的存在です。百舌鳥もず古墳群とは大阪府にある44基の古墳の集まりです。

古墳は単独で存在するように思われがちですが、基本的に数基~数十基で密集していることの方が多いのです。こうした古墳の集合体を「古墳群こふんぐん」といいます。

2位:誉田御廟山古墳

また、やはり中期に造営された大阪府誉田御廟山こんだごびょうやま古墳応神おうじん天皇陵古墳)も全長425mで全国位の規模です。

また、誉田御廟山こんだごびょうやま古墳も大仙陵だいせんりょう古墳と同じく、世紀のヤマト政権の盟主大王おおきみ)の墓だと考えられます。

誉田御廟山古墳は「古市古墳群」の中心

なお、誉田御廟山古墳は大阪府古市ふるいち古墳群の中心を占める巨大古墳です。古市古墳群は87基の古墳が寄り集まった大阪府の有名な「古墳群こふんぐん」です。

4位:造山古墳

さらに、同じく中期の前方後円墳である岡山県吉備きび地方)の造山つくりやま古墳も入試頻出ですよ。全長は350mで全国第位の規模です。

ただし、造山古墳は誰のお墓か分かっていません。様々な説がありますが未だ定説はありません。

3位:なぜか滅多に出題されない「ミサンザイ古墳」

ちなみに全国第位の前方後円墳は大阪府ミサンザイ古墳履中りちゅう天皇陵)で全長365mなのですが、なぜかこの古墳は大学入試にはごく稀にしか出題されません。

なお、ミサンザイ古墳は大仙陵だいせんりょう古墳と同様に、大阪府百舌鳥もず古墳群を代表する大型古墳の1つです。

古墳時代中期になると急に前方後円墳が巨大化する!大仙陵だいせんりょう古墳誉田御廟山こんだごびょうやま古墳は超頻出!造山つくりやま古墳も頻出!百舌鳥もず古墳群古市ふるいち古墳群も難関大では出題される!

3.古墳時代後期のまとめ

横穴式石室の登場

古墳時代後期(6~7世紀)になると竪穴式石室が消え、横穴式石室よこあなしきせきしつが一般化します。

竪穴式石室は個人を埋葬するためのものでした。これに対して横穴式石室は家族を埋葬できるんです。後から別の人のひつぎを追加できる仕組みになっている。これを「追葬ついそうが可能」と表現します。

入り口には閉塞石へいそくせきでフタをしますが、追加で埋葬するたびに開け締めが可能です。ヨコに掘られたトンネル状の通路を羨道えんどうといい、遺体を安置する部屋を玄室げんしつといいますよ。

後期になると横穴式石室が主流になる!横穴式石室は追葬ついそうが可能家族墓かぞくぼである!

群集墳

古墳時代後期には横穴式石室をもつ小規模な古墳(円墳えんぷん)が多数集まった群集墳ぐんしゅうふんが各地で営まれるようになります。群集墳の出現は豪族だけではなく有力農民も古墳を作るようになったことを示しています。

群集墳で是非おさえておきたいのが和歌山県岩橋千塚いわせせんづか古墳群奈良県新沢千塚にいざわせんづか古墳群の2つです。

さらに群集墳の一種で山の斜面に横穴式石室を作る横穴墓よこあなぼも登場します。横穴墓でおさえるべき遺跡は埼玉県吉見百穴よしみひゃくあなです。

古墳時代後期になると有力農民が群集墳ぐんしゅうふんをつくるようになった!岩橋千塚いわせせんづか古墳群は特に有名!

後期の副葬品の特色

古墳時代前期の副葬品は「呪術的/司祭的」な銅鏡などでした。中期になると「武人的な性格」を帯びるようになり馬具武器に変化します。

ところが後期に入ると、横穴式石室の登場で個人のお墓ではなく、家族のお墓になったので、家族みんなが死後の生活に不自由しないように、副葬品は土師器はじき須恵器すえきなどの日用品に変化していきます。

ちなみに弥生土器の系統を引き継ぐ土器が土師器はじきで、朝鮮半島から新たに伝来した土器が須恵器すえきですよ。

後期の副葬品は土器などの日用品

終末期と古墳の消滅

古墳時代後期は6~7世紀ですが、とくに7世紀終末期しゅうまつきと呼びます。終末期には絵画や図形が描かれた装飾古墳そうしょくこふんが登場します。装飾古墳としては奈良県高松塚たかまつづか古墳が有名です。

また、7世紀以降、古墳は次第に廃れていきます。その理由は以下の3つです。

  • 大化の改新で身分に応じて墓の規模が制限された(薄葬令はくそうれい
  • 仏教が広まり火葬かそうの風習が伝わった
  • 豪族の権威を誇示する方法が古墳の築造ちくぞうから寺院氏寺うじでら)の建立こんりゅうへと変化した

磐井の乱と岩戸山古墳

古墳時代後期に起きた大事件が527年磐井いわいらんです!

簡単に言うと、新羅しらぎから賄賂わいろを受け取った地方豪族の磐井いわいヤマト朝廷に反乱を起こした事件です。

4.古墳時代の生活

祭祀

古墳時代の人々にとって農業に関する祭祀さいしは非常に大切なものでした。とりわけ重要で模試や入試でも頻繁に出題される祭祀に、豊作を願ってに行われる祈年祭としごいのまつりと、収穫を感謝してに行われる新嘗祭にいなめのまつりがあります。この2つのお祭りは超頻出事項ですよ!

古墳時代の呪術的風習

太占(ふとまに)

焼いた鹿の骨の割れ方で吉凶きっきょうを占う古墳時代の呪術的風習を太占ふとまにといいます。要は古墳時代の占いですね。

盟神探湯(くかたち)

熱湯に入れた手がただれるかどうかで裁判における真偽しんぎを判断する古墳時代の呪術的風習を盟神探湯くかたちといいます。

要はすごく理不尽な古代の裁判方法ですね。

もし正しい者であれば熱湯に手を入れても火傷やけどしないと考えられていました。罪のあるものは大火傷を負うわけです。なお何も悪いことをしていなくても100%火傷する模様。

5.古墳時代と大陸文化の受容

古墳時代には中国や朝鮮半島から多数の渡来人とらいじんが日本にやってきました。その結果、様々な学問技術が日本に伝えられました。

渡来人とは4世紀後半以降に大陸から日本に渡って来た人々のことですよ。

ではどんな学問や技術が日本に伝来したのか?まずは一覧表を眺めてみましょう!

  • より進んだ鉄器
  • 須恵器すえき
  • 機織はたお
  • 金属工芸
  • 土木技術
  • 文字漢字
  • 医学
  • 易学
  • 暦法れきほう
  • 儒教じゅきょう
  • 仏教ぶっきょう
  • 絵の具すみ

須恵器と土師器の違い

古墳時代前期~中期の初め頃までは弥生やよい土器の系統を引く土師器はじきが主に用いられました。しかし5世紀になると朝鮮半島からもたらされた硬質で灰色須恵器すえきも使用されるようになります。

土師器は素焼きですが、須恵器はかまで焼き上げた土器ですよ!

  • 弥生土器→土師器はじき
  • 朝鮮半島→須恵器すえき

文字(漢字)の伝来

弥生時代にはまだ日本に文字はありませんでした。文字漢字)は4~5世紀の応神天皇の時代に渡来人である王仁わにが伝えたと考えられています。

但し王仁の実在を疑問視する説もあり正確なところは分かりません

漢字の伝来は遅くとも5世紀後半ごろです。

この「遅くとも5世紀後半ごろ」という時期の理由を理解するには、『稲荷山古墳出土鉄剣銘いなりやまこふんしゅつどてっけんめい』や『隅田八幡神社人物画像鏡銘すだはちまんじんじゃじんぶつがぞうきょうめい』などの史料を検討してみる必要があります。

暦法の伝来

602年に渡来した百済くだら観勒かんろくが日本にをもたらしたと考えられています。

絵の具/紙/墨の伝来

610年に渡来した高句麗こうくり曇徴どんちょう絵の具/紙/墨を日本に伝えたと考えられています。

仏教の伝来

仏教百済くだら聖明王せいめいおう6世紀半ば頃欽明きんめい天皇に伝えました。これを受けた欽明天皇は蘇我稲目そがのいなめに仏教を普及させるよう命じます。

伝説的な3人の渡来人

古墳時代の渡来人で今でもその名を残す伝説的な人物を3名ご紹介します。入試頻出事項ですよ!

①王仁(わに)

王仁わに応神おうじん天皇の時代に百済くだらから渡来し、識字しきじ・習字の教科書である『論語ろんご』・『千字文せんじもん』を日本にもたらしました。王仁は西文氏かわちのふみうじの祖です。

②阿知使主(あちのおみ)

阿知使主あちのおみも応神天皇の時代に日本に渡来した人物でとくに「文筆」に優れていました。阿知使主あちのおみ東漢氏やまとのあやうじの祖です。

③弓月君(ゆづきのきみ)

弓月君ゆづきのきみも応神天皇の時代に日本に渡来した人物です。弓月君は古墳時代の日本に養蚕ようさん機織はたおりの技術を伝えました。養蚕ようさんとはカイコを育ててまゆを生産することです。ちなみにまゆとは絹糸きぬいとの原料のことですよ。

また弓月君は秦氏はたうじの祖でもあります。

  • 王仁わに → 西文氏かわちのふみうじ
  • 阿知使主あちのおみ → 東漢氏やまとのあやうじ
  • 弓月君ゆづきのきみ → 秦氏はたうじ

渡来人と技術者集団

ヤマト政権は渡来人を技術者集団品部しなべ)に組織しました。ここでは入試でよく出題される5種類の品部しなべを確認していきます。

①史部(ふひとべ)

史部ふひとべ公的な文章や記録を作り、それらを管理する技術者集団(品部)です。東漢氏やまとのあやうじの祖である阿知使主あちのおみは史部を統括したと伝えられています。

②韓鍛冶部(からかぬちべ)

韓鍛冶部からかぬちべ鍛冶かじを専門とする渡来系の技術者集団(品部)です。「鍛冶」とは金属を加工して製品を作ることですね。

③陶作部(すえつくりべ)

陶作部すえつくりべ須恵器すえきの製造を行う技術者集団(品部)です。あくまで陶作部が作るのは朝鮮系の須恵器の方であって、弥生系の土師器はじきではありませんよ!

④錦織部(にしごりべ)

錦織部にしごりべ高級織物こうきゅうおりものを作る技術者集団(品部)です。

⑤鞍作部(くらつくりべ)

鞍作部くらつくりべ馬のくらを作る技術者集団(品部)です。「くら」とは馬の背中に固定して人が乗馬しやすくするための道具ですね。

  • 史部ふひとべ→文章作成
  • 韓鍛冶部からかぬちべ→鍛冶
  • 陶作部すえつくりべ須恵器すえき
  • 錦織部にしごりべ→高級織物
  • 鞍作部くらつくりべ→馬の鞍

6.好太王碑文のまとめ

高句麗好太王碑文こうくりこうたいおうひぶんは4世紀後半~5世紀初頭の日本の様子を知ることができる貴重な史料です。早速本文を確認していきましょう。

百残ひゃくざん新羅しんらは、もとこれ属民ぞくみんにして、由来ゆらい朝貢ちょうこうす。しかるに辛卯しんぼうとしもって、きたりてうみわたり、百残ひゃくざん・■■・■やぶり、もっ臣民しんみんす。…倭寇わこう潰敗かいはい惨殺ざんさつ無数むすうなり。

現代語訳百済くだら新羅しらぎは、高句麗こうくりに古くから従い、以前から朝貢ちょうこうしていた。(ヤマト政権)が西暦391年に、海を渡って百済くだら新羅しらぎを破り、服属ふくぞくさせた。しかし好太王こうたいおうによって倭(ヤマト政権)は敗北し、たくさんの死者を出した。

百済・新羅の高句麗への朝貢外交

冒頭の「百残ひゃくざん」とは百済くだらのことです。「新羅しんら」は新羅しらぎのことですよ。好太王碑文によれば、この2国は古くから高句麗に朝貢ちょうこうしていたらしい。朝貢とはお土産を持って挨拶に行くことでしたね。

ここで百済、新羅、高句麗、そして(日本)の拠点であった加羅から伽耶諸国かやしょこく)の位置関係を地図で確認しておきましょう。

4世紀から5世紀の朝鮮半島の勢力図、高句麗、百済、新羅の位置関係

鉄資源の確保

続いて、「辛卯しんぼうとし」とは西暦391年のことです。この年に日本が百済・新羅の両国を服属させたとあります。

どうやら鉄資源の確保を主な目的に、加羅(伽耶諸国)を足がかりとして、百済や新羅にも侵攻したようです。

好太王の活躍

ところが好太王碑文の最後には「倭寇わこう潰敗かいはい惨殺ざんさつ無数むすうなり」とあります。好太王こうたいおう広開土王こうかいどおう)が活躍して、日本をこてんぱんにやっつけたようです。どこまでが史実かは怪しいんですけどね!

乗馬の風習

なお、高句麗の騎馬隊との戦闘経験から、ヤマト政権にも乗馬の風習がもたらされます。中期の古墳の副葬品に馬具が見られるのはこのためです。

7.『宋書』倭国伝のまとめ

古墳時代の外交を理解する上で、宋書そうじょ倭国伝わこくでんは必須の超重要史料なのですが、全文を掲載すると、この記事の長さがエライことになってしまうので、『宋書』倭国伝の詳細は別記事にまとめますね。

8.氏姓制度のまとめ

古墳時代のヤマト政権は氏姓制度しせいせいどを整え、これによって中央/地方の豪族を大王おおきみの支配体制下に組み入れます。

氏とは

豪族ごうぞくは血縁を中心とするうじという集団を作りました。いわゆる「一族」のことです。但し氏は単純な家族ではないですよ。あくまでヤマト政権が国家を治めるための政治組織です。

また氏のトップを氏上うじのかみ、氏のメンバーを氏人うじびとといいます。また一族が信仰している神のことを氏神うじがみといいます。

うじとは一族のこと!

姓とは

この一族に与えられた地位や身分をかばねといいます。

かばねとはうじに与えられた身分のこと!

そして代表的なかばね(身分)の種類には以下のようなものがあります。

  • おみ:大和の有力豪族
  • むらじ:ある特定の職務にたずさわる豪族
  • きみ:地方の有力豪族
  • あたえ:地方の一般豪族

氏姓制度しせいせいどの頂点はヤマト政権の盟主である大王おおきみです。この大王に近い実力を持った有力豪族に与えられたかばねおみです。

一方、軍事や祭祀さいしなど特定の職務や役割を担う豪族に与えられたかばねむらじといいます。

おみを与えられた豪族としては葛城臣かつらぎのおみ蘇我臣そがのおみ平群臣へぐりのおみなどが有名です。むらじには軍事を担当する大伴氏おおともし物部氏もののべし祭祀さいしを担当する中臣氏なかとみしなどがいます。

またおみの中でも特に有力な一族を大臣おおおみといいます。同じくむらじの代表を大連おおむらじといいます。

中央・地方の支配機構

一方、中級以下の豪族伴造とものみやつこに任命されました。伴造は中央で技術者集団である品部しなべの管理などを担当します。

またきみあたえといったかばねをもつ地方豪族国造くにのみやつこ県主あがたぬし稲置いなぎに任じられ、地方官の役割を果たします。この中で特に重要なのは国造くにのみやつこです。国造は今で言う県知事のようなものです。

  • きみ→地方の有力●●豪族のかばね
  • あたえ→地方の一般●●豪族のかばね
  • 伴造とものみやつこは技術者集団の品部しなべを率いた!
  • 国造くにのみやつこは「県知事」のようなもの!

私地私民とは

大王おおきみや豪族はそれぞれ領地と私有民をもっていました。これを私地私民しちしみんといいます。

具体的には大王おおきみ(天皇)の直轄地ちょっかつち屯倉みやけといい、直轄民ちょっかつみん名代なしろ子代こしろといいます。

これに対し、豪族の私有地を田荘たどころといい、私有民を部曲かきべといいます。

豪族は自分の土地である田荘たどころ部曲かきべに耕作させたわけですね。

このような私地私民の仕組みは氏姓制度を支える経済システムと言えます

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お疲れ様でした!ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます!

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